資源戦争が身近になるとき
ベトナム戦争終結から今年(2025年)で50周年を迎える。
以前の記事でも紹介した通り、軍事と環境問題は密接に関わり合っている。しかし今回は、戦争が引き起こす環境問題ではなく、資源の枯渇を原因とした戦争をテーマとしよう。
「資」の「源」が枯渇する
あえて今さら、「資本主義」の仕組みについておさらいしよう。
まずあなたは経営者だ。あなたが安くて美味しいパンを大量に作って稼ぎたいとしよう。そのためにはパンの原料と、パンを作るための道具、労働力が必要になる。そしてそれを調達するためには「資金」が必要になる。あなたは資金を調達するために銀行から多額の融資を受ける。銀行にお金を返してお金持ちになる手っ取り早い方法は、「費用を最小限に、生産を最大限に」することである。
資金を使って「資源」を調達しよう。例えば、パンの原料となる水と小麦粉。パンを焼くための燃料。さらには労働力。パン工場を建てるための土地。これらはすべて生産のもととなる資源である。なるべく安く抑えた方がいいに決まっている。この中で費用を抑えやすいものと言えば、労働力、つまり人件費である。
「資本」も調達せねばならない。パン工場がそれだ(物的資本)。人件費の安い素人でもいとも簡単に大量のパンがつくれるような機械設備が必要だ。それと美味しいパンの作り方が書かれたレシピ本もそうだ(知的資本)。このレシピ本の知識さえあれば、人件費の高い熟練のパン職人を雇う必要がない。これら資本は儲けを生み出すための元手である。

こうしてあなたは三つの「資〇」を使って安くて美味しい大量のパンを世に届ける。このシステムが資本主義である。
資本主義にはもう一つ重要な特徴がある。それは、労働者は生産手段を持たないということである。工場の所有者は経営者であり、労働者は自らの労働力を売って経営者から賃金を得るしかない。
本題に入ろう。このシステムによって環境問題が生じるわけだが、ここでは簡単に説明する。経営者が利益を追求して、生産を加速させる。そのためには資源、つまり水と小麦粉と燃料と労働力が必要になる。大量のパンを売って増殖させた資金を使って大量の資源を調達する。
これ以上生産してもパンは売れないらしい、供給過多となるのだ。そうなると広告にお金をかけて、需要を強引に増やすのである。そうして増殖させた資金を使って、大量の資源を……
となるのだ。資金は無限に増殖するし、欲も無限だ。しかし資源は有限だ。そうなるとバランスが崩れ始めるのである。
資源のためには人も殺せるか
20世紀は「石油をめぐる戦争の世紀」とも言われる。石油はエネルギー産業において大変重要な役割を担っており、「あと○○年で無くなる」と繰り返し言われているが、実は石油の回収技術の継続的な向上などにより、可採年数は減少していない(むしろ増加することさえある)1。第二次エネルギー革命以降、パン工場をはじめとして、あらゆる産業における文字通りの「燃料」として中核を担ってきたため、それをめぐって争いが起こることがある。
太平洋戦争はアメリカによる対日石油禁輸を発端に、日本が石油などの資源を求めて起こした戦争でもある。日本ではほとんど石油が採掘できないからだ。同時期の独ソ戦においても、ドイツの目的の一つはソ連にある油田であった。
時代は下り、第四次中東戦争はどうだろうか。主に中東の産油国とイスラエルとの間に生じた戦争だが、これ自体は石油をめぐる戦争ではない。産油国にエネルギー資源を依存する西側諸国、一方で西側諸国はイスラエルを支持していた、という構図が問題だった。これにより産油国はイスラエルを支援する国々に対する石油の輸出停止を決定したのだ。これにより、「オイルショック」と呼ばれるように、当時世界経済は大打撃を受けた。
湾岸戦争は石油資源の豊富なクウェートにイラクが侵攻したことが発端であった。世界のエネルギーの安定供給のため、米国を中心とする多国籍軍がイラク軍を撤退させた。これ以後、石油をめぐって目立った争いは起きていない模様だが、人口の増加と資本主義のグローバルな拡大はその需要を漸次増加させていくに違いない。そうなれば枯渇も時間の問題だ。

その他にも水資源や生態系資源をめぐる争いが起こっている。
気候変動により異常気象の発生率が高くなると言われている。干ばつはその一つだ。人口が増加の一途をたどるアフリカ・サハラ以南では限られた水資源をめぐって集団間の争いが絶えない。水不足で死ぬか、命がけの争いに加わるか――。気候変動は人々にこの二択を突きつけるのだ。
外資系の企業による土地の囲い込み、大規模プランテーション造営のための森林破壊により生態系資源が枯渇している。外資系の企業は政治家や官僚を買収し、法外なやり方で強引に安い土地を手に入れる、といったことが横行する。人々は生活の場を追いやられ、場合によってはプランテーションで働くしかなくなる。企業は都合の悪い政権を転覆しようとすることさえある。生産に適した土地や安い労働力といった資源を手に入れる(究極的にはそれによって金儲けをする)ためには、いかなる手段も辞さないというわけだ。
しかしどれだけ、資本主義による際限のない利益の追求により資源が枯渇し、それによって多くの犠牲が出ているという事実を突きつけられたとて、それは他人事でしかないという人は少なくないはずだ(むろん筆者もその一人だ)。特に、日本のように世界で五指に入るほどの経済大国ともなれば、足りない資源は徹底的に他国から搾取できる。それに水資源は豊富なので、水に困ることも滅多にない(公園の蛇口をひねれば水が出る、というのは当然のことではないのだ!)。しかし他人事でいられるのも、そう長くないような気がするのだ。
無関心という暴力
今後、資源戦争難民が生活の場を求めて移動をするに違いない。現状、資源を自力で調達しきれていない日本はそうした難民を完全に無視することはできないはずだ。日本が難民の受け入れ先となったとき、そして難民として訪日し、日本で生活することを決意した人々を至るところで見かけるようになったとき、そのときはじめて戦争が他人事ではなくなるはずだ。そのときこそ、人々の背景も考えずに排外主義に走るのではなく、「なぜ彼らが日本に来なければならなかったのか」ということにまで考えを巡らせ、環境問題に危機感を募らせる――これをするかどうかはあなた次第だ。
最後に、筆者が経験したエピソードを紹介しよう。
筆者がベトナムへ渡航した際、偶然ホームステイ先で一緒になったロシア人と仲良くなり、食事を共にしたときのことだ。彼は2か月前に使い方を習得したという箸を器用に扱って料理を食べながら、ベトナムに定住するつもりだと話した。何気なく、彼に「国には帰らないのか」と尋ねた。次の瞬間、彼がおもむろに箸を置いて、「本当は食事中に政治の話はしたくないんだけど、」と前置きをしたときに、やってしまった、と思った。そして彼は例の戦争に参加したくないのだと、あっけらかんと言った。
ここから得た学びと言えば、身近ではない話はいかに多くの情報に触れていたとしても、身近になりすぎることはないということだ。例の戦争――ロシア・ウクライナ戦争に関する情報は、このごろはそうでもなくなったが、連日報道されるほど世界が注目を集めるニュースであったので、筆者も人並みにその情報には触れていたはずだった。「新冷戦」と呼ばれるほど世界が危機感を募らせる事態であるにもかかわらず、結局のところ筆者にとっては他人事にすぎなかった、ということが明らかになった。そして戦争が始まって以来初めて、少しだけ、他人事ではなくなった瞬間だった。
- 山内睦文 2012『人類と資源――資源の立場から見た持続性』風媒社 p.132. ↩︎


