江戸から学ぶサステナブル
しばしば、江戸時代は環境にやさしい社会であったと形容される。壊れたものを捨てない「もったいない」精神が社会規範として根付いており、現代から見ると資源利用に関して言えば理想的な「循環型社会」と言われることもある。
しかし本当にそうだろうか。本稿ではエコ社会・江戸のまちの様子がいかなるものであったのか、想像を巡らせながら、その資源利用が本当に持続可能なものであったのか、掘り下げていこうと思う。
驚異の資源循環と現代の「循環」
まず資源循環型社会としての江戸について、まちの様子を概観していこう。
まずお釜にひびが入ったとき。「いかけいかけ」と声をかけて巡回している職人に修理してもらう。この職人は「鋳掛屋(いかけや)」と呼ばれ、金属製品を専門とする修理屋である。茶碗が欠けてしまったときは「瀬戸物焼き継ぎ屋」に持って行こう。職人は焼き継ぎで接着するので破片も持って行くのを忘れずに。鼻緒が切れた雪駄さえも職人に直してもらう。下駄の歯の交換も請け負っている。
さらに都市で出た屎尿や有機ごみは専門の業者が買い取って、農村で肥料として売られる。修理ではないが、使えるものはすべて使うという精神は通底しているようだ。

もちろんこれだけではない。まちには多種多様にわたる修理屋がいて、壊れたものを安価に手早く修理してくれるのだ。大量生産・大量消費のシステムとは程遠い世界――必要生産・大量修理とでも言うべきか――が、日本に確かに存在していたのである。それもせいぜい200年前まで存在していた。そのシステムは黒船がやってくるまで200年以上持続していた。黒船が来なければ半永続的に続いていたことだろう。
反対に、黒船が来てから200年足らずで持続可能性の危機に陥っている我々の社会システムは自省し自制するどころか、加速度的に歯車が回転し続けている。このブログを通して繰り返しになるが、大量生産・大量消費システムが恐ろしいのは、「壊れたら買い替える」という消費行動にとどまらないことだ。「壊れなくても買い替える」のである。
大量生産・大量消費システムを回すという意味では現代も「循環型社会」と言えるかもしれない。
浮世絵に見る江戸の資源利用
しかし決して江戸の資源利用は持続可能なものではなかったとして、度々やり玉に挙げられるのが「はげ山」である。例えば、当時の浮世絵を見ると山に木々はほとんどない(そういった描法なのだと言えばそれまでだが)。もちろん根拠は浮世絵だけではない。近世は薪や炭、建築木材の需要が非常に高く、特に人口増加によって森林資源の供給が需要に追いついていなかったと言われている。

民俗学を専門とする渡部圭一(2023)は、近世のむらでは「はげ山の存在が常態化し、はげ山とともに暮らす(暮らさざるをえない)人々」が存在したと指摘する。これはまさに人々による採取圧が恒常的に掛かっていたがゆえに起こっているのであり、森林資源の需要過多を示している。
しかしこの論文が示すところで興味深いのは、必ずしも当時の管理規範から逸脱した採取行動が行なわれたことによってはげ山化しているとは限らないということである。コモンズのルールを守っていながらはげ山と化していたのであるから、必ずしも目先の利益に囚われて暴走したむらの人の仕業ではないということである。
そもそも、森林資源の供給が需要に追いついていなかったために、先に示した循環型社会が成立したと言うこともできる。限られた資源を循環させなければ、森林資源の貧困どころか、生活や文化の貧困に陥っていた可能性もある。需要過多に応じて「仕方なく」循環させていたのかもしれない。
前々回の話に絡めて
同筆者による前々回の記事の最後に「時間に価値を置くシステム(以下、このシステムを導入した社会を「多元価値社会」とする)」についての話をしたが、本稿のテーマをこれに絡めてみよう。
そもそも多元価値社会とは、貨幣価値を最小限まで抑え込み(あくまで賃労働は廃止せず)、貨幣制度とは完全に独立した形で時間価値を尊重したシステムを併存させることにより、大量生産・大量消費の歯車を抑止することを目指した社会であり、環境問題を根本的に解決するための具体的な指針として編み出した制度である。このシステムを現実的に導入するとなると、例えば現行の通貨を廃止してデマレージ通貨(時間が経つにつれて価値が減少する。これにより価値の貯蔵を防ぎ経済格差がほとんど発生しない)に移行しなければならないなど、かえって非現実味が増すわけだが、今回そうした問題は脇に置いておく。
江戸時代の大量修理システムを多元価値社会において再現してみよう。多元価値社会においては徹底的に生産が抑え込まれることによってあらゆる商品の市場が縮小あるいは消滅する。残された市場はほとんどが必需品とインフラサービスとなる。生産が減れば必要とされる労働力が減り、必需品以外の需要も驚異的に減少する。結果的に週15時間労働によって社会が回る。週15時間労働はいい加減なことを言っているわけではなく、大量生産が無くなるとともに「ブルシット・ジョブ」1を限りなく減らす(おそらく自然消滅する)ことによって達成され得るのである。

しかし生産力が失われることで、当然市場に出回る必需品は減少し、「壊れても買い替えることができない」状況が発生する可能性がある。そこで人々は自力で修理をする、あるいは誰かに修理してもらうといった状況が生じるのだ。靴底が剥がれた靴を近所のおじさんに修理してもらう、そのかわりにおじさんの庭を掃除する、などという互助関係が生まれる可能性もある。それが次第に発展していくと、特定の地域社会の中で靴の修理を一括で担う修理業者が現れる。修理業は賃労働の対象にはならない(多元価値社会において賃労働の対象になるのは必需品の生産やインフラ整備に関わる労働のみ)。しかしその業者はもともと地域社会の中で靴の修理に関してはピカイチで、靴の修理を頼まれることが多くなった結果、仕事へと昇華するのだ。
修理業として活動する時間は公的な機関が「社会に対する大きな貢献」と見なし、それ相応の「名誉クレジット」を与える。修理業者として認証されている(ある意味社会に束縛されている)期間は修理する靴が一足もなかったとしても、名誉クレジットが与えられる。社会のために時間(有限な資源)を使っていると見なされるからだ2。
名誉クレジットは第二の貨幣となることを防ぐために、一切の交換機能を持たない。さらにこれも時間の経過とともに減少する(本当に名誉ある業績を残した者ならば永久に語り継がれるものだ)。これにいったいいかほどの価値があるのか、と考える人も少なくないかもしれないが、それは貨幣価値に重きを置いている現代社会が形成した思考の枠組みで捉えているからだと筆者は考える。
渡部圭一 2023 「はげ山とむらの資源管理」『日本民俗学』316:35-70
- 人類学者デヴィッド・グレーバーが著書『ブルシット・ジョブーークソどうでもいい仕事の理論』(2020 [2018]、酒井隆史・芳賀達彦・森田和樹訳、岩波書店)で「被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている。」と定義した仕事のこと。ちなみに「週15時間労働」については1930年にイギリスの経済学者ケインズが、20世紀末までにテクノロジーの進歩によって週15時間労働が達成される、と予測したことに基づく便宜的な指標であり、本稿でもそのまま使用した。 ↩︎
- 依然として、仕事に従事する人間が「時間の奴隷」となっているという構造的欠陥がある。労働と時間との結びつきは非常に深い。よって時間の尺度自体も見直す必要があるのかもしれない。 ↩︎


