ブータンの森林政策を読み解く

ブータンは中国とインドという二つの大国に挟まれた国家である。本稿では、そのような地政学的な緊張感を抱えた緩衝国としての立場にある国家を、大国に翻弄される受け身な存在としてではなく、独自の森林政策によって唯一無二の存在感を発揮するものとして描き出すことを試みる。

世界初のカーボン・ネガティブ国家

ネガティブと聞くと否定的な印象を受けるが、カーボン・ネガティブというのはCO2の排出量がその吸収量を下回っているということを示す(よく耳にする「カーボン・ニュートラル」はCO2の排出量と吸収量が同じになること)。つまり世界一の環境先進国とも言える。

しかしブータンは経済的な側面から見るといわゆる「途上国」であり、著しい経済発展の最中にある。なぜカーボン・ネガティブを実現しているのだろうか。

ブータンでは憲法に「国土の60%を森林として保全しなければならない」と定められていることなど、環境保護政策が積極的に行われてきたことがその理由として挙げられる。しかしこれは国内で環境問題が問題視されたから、というより国際社会において「環境主義国」としての地位を築くためである。大国に挟まれた小国ブータンの生存戦略である。

こうした森を守る文化はブータンが敬虔な仏教徒の国であるがゆえで、伝統的で自発的な文化であるということを強調している一方で、その森林保護は国立公園の画定や厳しい立ち入り規制などグローバルな枠組みを導入した「近代的な」方法である。こうしたグローバルに認められた森林保護政策は国際社会で環境主義国として認められるに十分であるのだ。

ブータンは中国とは国境問題を抱えている一方で、インドとは経済や安全保障において重要な関係を結んでいる。こうしてインドを後ろ盾にした上で、「環境保護に取り組んでいる」という普遍的な価値を武器に国際社会を味方につけることで、ブータンは小国ながら自立した存在として独自の地位を築くことに成功しているのである。

「森林保護」は国を豊かにするか

しかし本稿は国家の外交戦略を記述するにとどまるわけにはいかない。以前執筆した記事の中で、政府による「森林保護政策」が伝統的で持続可能な慣習を壊し、かえって人々の生活を苦しめることになるといったことを書いたように思う。しかしその際、何ら具体例を示していなかったので、今回ブータンの森林政策を例にその様態を描いていこうと思う。

少し古い文献だが、地域研究・文化人類学を専門とする宮本万里の論文を参照したい。

ブータン政府は牧畜を生業とする人々が森林を利用した放牧を行うことに対して否定的である。「柵に囲われた人工の牧草地での集約的な酪農形態への転換」のために、在来の牛に取って代わって生産性の高い海外の牛を導入し、在来の牛を処分していくことで頭数の削減を目指すのである。しかし「牛の処分」とはすなわち屠殺を意味する。村落社会にも浸透している「殺生の忌避」という仏教の教えが「処分」に対する抵抗感を生んでおり、頭数削減政策は進んでいない。

「手つかずの自然」を回復することがブータン政府にとっての「自然環境保護」であるが、それを行うために牛を処分することや外来の牛を導入することははたして「自然環境保護」なのかということは考えねばならない。さらに、「自然環境保護」政策に関して仏教の教義に基づくものだという言説を定着させているが、その政策が牛の処分を伴うもので仏教の教義(殺生の忌避)に反することであるという矛盾も孕んでいる。

主体でもあり客体でもある

宮本の論文が、「自然環境が普遍的な「正義」としてグローバルに価値づけられるなか、それは時に反論を許さない強権として」働く一方で、村落社会に生きる人々が決して客体的な存在ではないということを示していることは興味深い。国家という規模で考えると、小国ブータンが権力的な構造にさらされながらも、森林政策を軸としたしたたかな戦略によって主体性を発揮していると見ることができる。あるいはミクロな規模で考えると、その森林政策は国民の生活を規制するものになり得る権力性を内包している一方で、決して受動的な存在ではない地域住民からの再解釈の働きかけにさらされているという側面もあるのだ。

ここまで環境主義国としてのブータンを描いてきたが、ブータンは国民総幸福量(GHN)を重視する「幸福な国」としても知られている。そしてこのGHNの理念の柱の一つに「環境保全」を掲げているのだ。人と自然環境との関わりを国民の幸福度に関わる重要な要素と位置づけているというわけだ。

コミュニティフォレストリーという取り組みがある。これは国家による一方的な国立公園や自然保護区の画定によって徹底的に人為を排除するものとは大きく異なり、地域住民の手によって森林の保全・管理を行おうとする取り組みである。地域住民は木材やきのこなどを採取し販売する権利を持っており、一方で政府は森林管理のための技術面・財政面での支援を行う。この政府の介入の程度によって住民の主体性が脅かされる恐れはあるものの、「持続可能な森林政策」としては一定の成果がありそうだ。

何事も完全な主体・客体であることはあり得ない。我々はしばしば大きな流れに目を奪われがちではあるが、「小さな主体性」が存在しないことはないという前提に立ち、その小さな流れに着目していくことは狭窄な視野から脱することを促してくれるはずだ。

宮本万里 2008「森林放牧と牛の屠殺をめぐる文化の政治」『南アジア研究』20:77-99

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