「コモンズの悲劇」を終演するために

「コモンズの悲劇」というのをご存じだろうか。コモンズ(狭義)とは共同体の構成員であれば誰でもアクセスできる共有資源のことで、コモンズの悲劇はコモンズの過剰利用により資源が枯渇する現象を指す(「コモンズの悲劇」で言われるコモンズはもっと広い意味で捉えられるが、本稿ではそういった点については深掘りしないでおく)。

「悲劇」は起こらない?

こうしたコモンズ論において常に仮定されるのは、目先の利益を追求しようとする「合理的な」人間である。しかしこれはあくまで市場論理に都合の良い人間像にすぎないのであり、実際に世界を見渡してみると、コモンズを持続可能な形で利用するための仕組みを持っていることが少なくない。

例えば日本でも「入会(いりあい)」と呼ばれる伝統的なコモンズがある。江戸時代以前より存在すると言われており、環境省のある資料には次のように記載してある。

入会地においては、住民の生存に不可欠な地域資源に対して、利用規定の設定・遵守やメンバー間の資源利用の競合および混雑現象の回避を積み重ねた共同体的規制が行われることにより、持続的な資源利用が継続されてきた。

このように入会は、一定の要件を満たした地域社会の構成員だけを新たな構成員とする慣習や、転出すると権利を失う慣習によって他出者を排除していくことにより、入会集団が厳格に地域共同体構成員の集団たり続けることができる組織原理で維持されてきたといえる。

引用:環境省

つまり、入会は地域のルールによって持続可能な形で今日まで維持されてきたものなのだ。一方で、現代の地域住民にとっては入会地の重要性が低くなりつつあることで、地域環境の悪化につながりかねないという課題もあるようだ。むしろ適度な自然資源の利用が、人と自然とが共生していく上で望ましい環境づくりに繋がるのである。

以前の「人新世を生きる」という記事の内容にも繋がってくる話なのだが、欧米諸国の植民地期の「自然保護」政策のために、植民地領のコモンズが解体されるという事例がある。政策を行いやすいように複雑性を持つ地域のシステムを単純な形にしようとしたのである。この政策では現地の人々が循環的な自然利用をしていたかどうかは検討されていないことが多く、やはり人為の痕跡がない純粋な「自然」を希求していたものと考えられる。

グローバル・コモンズの悲劇

ところで近頃、「グローバル・コモンズ」という言葉をしばしば耳にする。グローバル・コモンズは国際公共財と訳されることもあり、「人類みんなのもの」という言い方もできるが「誰のものでもないもの」という言い方もできる。例としては大気、大地、海洋などが挙げられる。

より具体的に述べるなら、例えば大陸の黄砂が日本にやってくることがあるが、これは日本人が吸う空気と中国人やモンゴル人が吸う空気は不可分だということだろう。つまり大気は国境を越えて共有される財産であり、特定の地域の人々が独占できるものではないのである。

このように地球環境をグローバル・コモンズと捉えると、「COP29から見える『溝』」でも紹介したように、コモンズの悲劇は既に先進国によって実践されたものと言えるだろう。現在我々が直面している環境問題がその悲劇の結果なのだ。本稿ではコモンズの悲劇で仮定されている人間像を批判するような形で始まったが、そのような側面を人間が持ち合わせているというのもまた事実なのである。

冒頭では述べなかったが、コモンズの悲劇では人間が資源を乱獲する理由の一つとして、「誰のものでもない」ことが挙げられている。「誰のものでもない」ということは、資源が枯渇しても誰の責任でもないということだ。(「森林環境税の存在意義」という記事でテーマとなっている森林環境税というのはまさに、その責任が経済的負担として機能しているものである。)

しかし、「誰のものでもないもの」であるからこそ、自己中心的な利用は妥当ではないだろう。さらに「人類みんなのもの」であるからこそ、一人一人が責任をもって環境を整える必要がある。グローバル・コモンズという概念はこの二つの側面を端的に表したものと言えよう。「悲劇」をこれ以上繰り返さないためには、地球環境というコモンズを共有する我々による、適切な管理のための努力がコンスタントになされる必要がある。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

政策

前の記事

COP29から見える「溝」