遊動生活は最適解か

人類は1万年前に定住生活を始めたと言われる。それまで数百万年続けてきた遊動生活を捨てて、定住生活を始めた。定住化以降、人間はいわゆる「文明」を発達させてきた。1万年というのは人類史の中で見ても非常に短期間であるが、その短期間で異常なスピードで社会が変化した。

そして目まぐるしく変化し続ける現代社会において、遊動生活であれば問題にならなかったはずのことが生じている。その一つが地球温暖化であることは言うまでもない。

今回は世界のどこかで現在も遊動生活を送っている人々の営みを参考にしながら、定住がいかに環境にやさしくない営みであるのかを紐解いていく。

定住化が災害の原因?

さっそく事例を取り上げよう。

ロシア連邦の中でも最も寒いと言われるサハ共和国。ここでは春の雪解けとともに、洪水が発生する。というのも、冬には川に厚い氷が張る上に、上流(温暖)と下流(寒冷)の温度差によって氷の解けるタイミングが異なるからだ。具体的な流れを説明しよう。

冬の寒さにより川に氷が張る。春になって氷が解け始めるが、比較的温暖な上流側から解け始める。解ければ当然川は下流に向かって流れるわけだが、下流では氷が解けておらず流れてくる水を堰き止めてしまうのだ。これがあふれることによって洪水が起こる。それも水が流れるだけでなく、時に巨大な氷が一緒に流れて建物を押しつぶすこともある。

しかしソ連が定住化政策を行う20世紀前半まで、この地域の多くの人びとは遊動的な生活を送っていたという。彼らにとって洪水は異常なことではなかった。水が来ればテントをしまって安全な場所に移動すれば済んだからだ。つまり洪水を「災害」として認識していなかったのだ1

定住化政策によって洪水が災害化しただけではない。近年の温暖化によって上流の氷の融解時期が早まり、洪水が大規模化する恐れまであるのだ。

所有から見る「豊かさ」

遊動生活において、モノというのは必要最小限に抑えられる。これは文字通り、「富が重荷」になるからだ2。遊動民と生活を共にした民族誌学者が、彼らとの別れ際に贈り物をしようとするが、それが彼らにとって移動の重荷になるがらくたになることに気づいたという話もある。

彼らは生活に必要なものはすべて自分の手で作る。社会の成員がそうした技能を持ち合わせているのは当然のことで――それぞれ得手不得手はあるだろうが――、スキルと材料さえあればどこでも生きていくことができるのである。これはある種の「物質的な豊かさ」を享受していると言える。必要なものを必要な分だけ作る。これが環境にやさしいというのは言うまでもない。

我々の社会から見ると彼らの生活は貧相に見えるかもしれない。狩猟採集民であれば食料を探すためにキャンプを移動し、遊牧民であれば家畜の餌のために移動を続ける。移動において余計なものは持たないというか、食料獲得のために一日の大半を費やしているために物財を求めようという欲が湧く余裕もない、「かわいそうな人々」に見えるのである。

しかし本当にかわいそうなのは我々の方かもしれない。農業や漁業でもしていない限り、生計を立てるのに必要な生産手段を持たない人々はただその労働力を売ってひたすらお金に換えるしかないからだ。遊動生活民に比べて非常に限られた選択の中で生きているとも言えるのではないだろうか。我々も彼らとは異なる次元の「物質的豊かさ」を享受して生きているが、それはただお金を稼ぐことによってのみ達成されるのである。

そもそも世の中には一日の大半をそのお金を稼ぐことによってのみ費やす人が少なくない。この1万年を通して社会はまるで発展してきたかのように思えるが、それ以前と同じ生活をしている人より「豊かである」とは一概に言えないのである。

退屈のルーツ

定住を始めたことによって生じた問題は多くある(以前の記事ではごみ問題を取り上げた)が、その一つに「心理的負荷の供給の必要性が生じた」という問題がある3。これは端的に言えば、「気晴らしの必要性」である。

遊動生活を送っていたころ(あるいは送っている人々)はキャンプの移動を繰り返すので、見える風景が変わるのはもちろんのこと、食料資源の在り処や危険な獣がいないかなどといった探索能力が最大限に発揮されていた。こうした情報が我々の大きな脳みそに刺激を与えていたことは想像に難くない。

しかし定住を始めるとどうであろう。探索能力が行き場を失うこととなり、大脳に過度な負荷をかける場面が必要となるのだ。定住化によって芸術や複雑な政治経済システム、複雑な儀礼を伴う宗教体系が発達したのはこれが要因だと言われている。縄文土器に一見「余分な」文様が施されているのも、日本列島に住む人々が縄文期に定住生活を始めたことを考えれば説明がつくのである。

哲学者の國分功一郎は『定住革命』を引用した上で、定住化に伴って生じた問題のうち「ゴミにはゴミ捨て場、排泄物にはトイレという決定的な解決策が与えられたのに対し、退屈についてはこのような決定的な解決策が見出されていない」としている4。芸術などは解決策の一つにはなり得るが、誰もがアートを創造したいと思うわけではないし、退屈を経験したことがないという人は少なくないのではないだろうか。

現代人がSNSに異常なほど熱中してしまうのも、すぐれた探索能力・情報処理能力を発揮したいという欲求に駆り立てられるからなのかもしれない。つまり、現代のSNS問題は定住化によって生まれた問題とも言える5

定住生活とどう向き合うか

退屈を解消する手段として我々は「環境に悪いこと」をたくさんしている。例えば余暇を利用して旅行に行くとき。バックパッカーやサイクリングでない限り、飛行機・自動車・電車その他諸々の移動手段によってCO2が排出される。コロナ禍でCO2の排出が減少したことは言うまでもないが、家でおとなしくしていることができるのならそれが一番環境にやさしいのかもしれない。

しかし我々は本能的に刺激を求めている。家にいても何かしら刺激を求めるのであり、家の天井についているシミの数を数えるのに飽きたらやはり外に出たくなるものだ。遊動生活を復活させることができるのであればそれが良いかもしれないが、残念ながら定住生活を始めてしまった以上、それは非常に困難だと言わざるを得ない。

既に環境に悪い生活を基盤にしているのだということは自覚しつつ、今こそ探索能力を発揮させて、少しでも環境にやさしい退屈しのぎを見つけ出すことが、地球という巨大な家に定住する人類の責務なのかもしれない。

  1. 藤原潤子 2014「コラム1 環境をめぐるリスク――温暖化するシベリア・サハ共和国での洪水事例から」東賢太朗・市野澤潤平・木村周平・飯田卓編『リスクの人類学』pp. 104-10. ↩︎
  2. サーリンズ, M. 1984[1972]『石器時代の経済学』山内昶訳 法政大学出版局 ↩︎
  3. 西田正規 1986『定住革命――遊動と定住の人類史』新曜社 ↩︎
  4. 國分功一郎 2015『暇と退屈の倫理学 増補新版』太田出版 ↩︎
  5. そもそもSNS自体が定住化とそれに伴う複雑な社会の発達の帰結と言える。 ↩︎

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