広告の力

我々の身の回りの至る所に見られる広告。しばらく釘付けになってしまうほど芸術的なものもあれば、鬱陶しくて仕方がないものもあり、その内容はさまざまだ。街で見かけることもあれば、スマホやパソコンといったデジタル媒体を通して見かけることも――今日においては後者が大半かもしれない――ある。

これらすべてに共通するのは、広告を表示させる場所を提供する側と広告を表示して何らかの情報を大衆に提供したい側との利害が一致しているということである。今回はこれを軸に、環境問題という側面を切り取って考えてみよう。

エコを宣伝するということ

環境に関わる広告を見たことはあるだろうか。と、問うまでもないかもしれない。このブログ記事に表示されている広告が目に入っているはずだ。

このブログ以外にも、環境にやさしい製品を紹介する広告、あるいは環境問題や環境保全活動を啓発する広告など、世の中にはさまざまあるはずだ。ただそのような類の広告が増えている気がする、といった個人的な所感を述べるのはあまり意味をなさないだろう。このごろのデジタル広告というのはその人の興味関心などを商品の購買履歴や位置情報、Googleで何を検索したのかということなどの情報を集め、それに合わせた広告を出すような仕組み(広告のパーソナライズ)が出来上がっているからだ。

Googleなどがこうした情報をもとに「○○在住、20代男性、環境製品に興味あり」といった属性に分類し企業に売って金儲けをしている、という批判はもはや陳腐になりつつあるが、このトピックを取り扱っておきながらこれに触れないわけにはいかない。

検索エンジンやSNSと連動した広告サービスを提供するGoogleやFacebookは、売上の約8割以上を広告収入が占めており、人々の集まる場としてのプラットフォームを広告ビジネスにつなげている。2022年のGoogleの広告収入は、約2,245億ドル(売上高全体の79.4%)、Facebookの広告収入は、約1,136億ドル(売上高全体の97.5%)となっており、2社を合わせると約3,381億ドル(44兆4,615億円)となる。日本の広告市場が7兆1,021億円であることを考慮するといかに巨額であるかがわかる

引用:総務省

これは令和5年版の総務省情報通信白書に書かれているものだ。これだけで広告というものがいかに巨大な力を持っているのかがよくわかる。広告は人を動かし、金を動かし、社会をも動かす潜在性を秘めているのだ。

広告はそもそもエコなのか

広告に限った話ではないが、例えばデジタル広告であれば「クラウド社会が抱える環境問題」という記事を参照すれば、デジタル社会が与える環境負荷をイメージしやすいだろう。つまり仮に広告で環境問題に関する啓発活動を行ったとして、その広告自体が環境に負荷を与え得るということだ。ただそんなことを言い出したらきりがないのはわかっている。環境保護団体の人たちだって生きていくのにCO2を排出しているじゃないですか、と言っているようなものかもしれない。

ただ広告は余分な消費を促すものである、という点に注目したい。

今までの記事でも繰り返してきたが、余分な消費を促すことが資本主義社会を無限に稼働させようとする燃料となっているのである。

ちなみに余分な消費と浪費は異なるものである1。例えばお酒やたばこ、茶、コーヒーなどといった嗜好品は人間の生命維持に必要かと問われれば必ずしも必要ではないと答えるだろう。しかし、それらの需要が一定程度存在する――中毒性が高いものは特に――のは想像に難くない。一日労働をしたあとのアルコールが身体に沁みたり、休憩時間中の一服がもたらす安らぎというのは、人間が生きていく中で必要なものであるからだ。それにお金をかけることは浪費だが、余分な消費とは区別されなければならない。つまり「○○をしたい」という、心の底から湧いてくる欲求が駆り立てた結果としての浪費なのだ。

では反対に余分な消費とは何であろうか。かえって混乱を招くかもしれないが、ここでも嗜好品を例に取ろう。例えばあなたがぼんやりとテレビを眺めているとしよう(あるいはスマホやパソコンでドラマの無料見逃し配信でも観ているとしよう)。NHKではない限り、基本的に避けられないのはCM(コマーシャル)である。もちろんこれも立派な広告だ。そこで缶ビールのCMが流れるのだ。CMはあなたの購買意欲を駆り立てるために工夫をしている。演者がのどごしを立てながらビールを飲む姿、これはビールCMの定型となっているが、これはあなたに「ビールが飲みたい」という欲求を創り出すための仕掛けである。これを観て、ビールが飲みたくなって、近所のコンビニに缶ビールを買いに行くのなら、それは余分な消費であると言える。

Glasses of light beer with barley at bar. Two glass of beer with wheat on wooden table

先ほどの浪費と何が異なるのか。それは、広告(CM)を観なければ買いに行くはずのなかったビールを買った、ということである。一見、自身の欲望の思うがままに主体的に行動しているように見えるが、ほとんど操られている。

これを踏まえると、企業側が広告で消費者を操ることによって、環境破壊が促進されてきたということもできる。

広告とどう向き合うべきか

消費者側は「本当に欲しいものは何か」を考え続けて生きることが環境問題の根本的な解決策になるのかもしれない。Amazonのおすすめリストにある商品もついでにカートに入れているようでは、それはAmazonの思う壺であるだけでなく、一部のお金持ちの儲けになるだけで、その上環境破壊に加担することにもなるのだから。

とは言え、現代社会はあまりに便利だ。この利便性ははっきり言って捨てがたい。この利便性に甘えているという状態は企業側に操られに操られた結果でもあり、合理性を追求しようとする人間の心の底からの欲求でもあるのだろう。

広告も負の側面ばかりではない。広告がなければ見出されなかった素晴らしい商品は世の中にきっと多くあるはずだ。消費者側にも広告のおかげですてきな出会いが生まれているに違いない。広告の目的を金儲けのみに収斂するのは、あまりに想像力不足と言わざるを得ない。広告は「良い商品を届けたい/良い商品を購入したい」という二つの欲求を繋ぎ合わせ、社会的な満足度を上げるのに多大なる貢献を果たしているという側面があることも無視してはならない。

最後にこれだけ断っておこう。「広告も負の側面ばかりではない」というのは決してこのブログ記事に広告を貼っていただいている企業に忖度しているわけではない――本当に忖度をしていたらこんな記事は書けないが――。この記事はいつも通り、誰かがよりよい社会について考えるきっかけになることだけを考えた記事である。

  1. ボードリヤールの「豊かさがひとつの価値となるためには、十分な豊かさではなくて、あり余る豊かさが存在しなければならず、必要と余分との間の重要な差異が維持されなければならない。これがあらゆるレベルでの浪費の機能である」(ボードリヤール, J 1995[1970]『消費社会の神話と構造』今村仁司・塚原史訳 紀伊國屋書店 p.42)という浪費の定義を参考にしている。 ↩︎

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