貨幣に代わる新たな社会へ

グリーンウォッシング(グリーンウォッシュ)とは、エコを表す「グリーン」と上辺だけを取り繕うことを表す「ホワイトウォッシング」をかけ合わせた造語で、特に企業が上辺だけの環境対策を行っていることに対して使われる用語である。今回はこのグリーンウォッシュを起点に話を進めていこう。

資本主義の先鋭化

現在、世界はグローバル化に伴って新自由主義の拡大も留まるところを知らないようである。

そもそも新自由主義とは、経済活動の自由を確保するために市場への政府の介入を最小限にしようという考え方である。同時に市場の効率性に委ねることで、国家の財政難を乗り切ろうとするのだ。例えば、国有企業の民営化はその流れの中にある。日本では国鉄がJRに、電電公社がNTTに、専売公社がJTへと生まれ変わったほか、郵政も民営化されている。

国立大学の法人化もその一つである。国立大学に対する国の援助金を減らし、そのしわ寄せが大学教員の減少や学費の高騰に回っているという問題が生じている(驚くべきことに、数十年前は国立大学の学費は年間2〜3万円ほどだった。もちろんインフレの問題ではない)。ノーベル賞受賞者を含む優秀な頭脳が海外に流れているのも、日本が研究にお金をかけないことの証左だ。

まるで国家という強大な権力から解放され自由の身になったかのような感覚に陥るが、これによって得をするのは一部の人間だけだ。公共物を含むあらゆるものが市場に組み込まれて貨幣価値に換算され、貨幣こそがすべてだという資本主義の原理のような価値観の固定化を招く。その上、低所得層はそれまで無料、あるいは安価に利用できていたものが利用できなくなり、社会から排除されていくのである。

環境対策における格差

カーボンクレジット制度は資本の論理を巧みに利用した制度ではあるが、これは大企業のみが得をする制度でもあり、グリーンウォッシュの温床にもなりかねない。

ここでカーボンクレジットについておさらいしておこう。その業種上、CO2の排出削減がどうしても困難な企業というのは存在する。そこで、カーボンクレジットの購入によって排出量を相殺(オフセット)するのだ。カーボンクレジットは、他社が認証されたCO2排出削減量・吸収量をクレジットとして発行したものである(例えば再生可能エネルギーを導入することによって、CO2の排出削減が認証される)。よってクレジットの取引に関わる企業に環境対策のインセンティブを与えることができるという仕組みである。

環境がまるで疑いようもない「普遍的な価値(Universal Value)」とされつつある今、CO2を大量に排出する企業は「悪」であるとみなされる。その汚名を返上するのにカーボン・オフセットは大変都合が良いのだ。このごろよく見かける「CO2実質ゼロ」などという文言はこのためである。

しかし中小企業はどうであろうか。脱炭素のための設備投資やクレジット認証のためのコンサルタント費用など、どこから捻出できようか。あるいはオフセットのためにクレジットを購入する余裕があるだろうか。こうして環境対策のできない企業は社会から排除されていく。それは疑いようもない「悪」とみなされるからだ。

反対に、環境対策にお金をかけられる企業は「環境にやさしい」という記号を製品に纏わせることができる。それが仮にカーボン・オフセットによってなされたものであっても、である。環境破壊という名の「悪行」はお金で解決すればよい、という思考を生み出しかねない。それは罪を犯した人間が警察に賄賂を渡して免罪符を手に入れるのに等しい。そうなればかえってCO2の排出を根本的に削減しようというインセンティブを失う可能性もある。

しかし、現実を見よ

しかし本稿をただ、大企業のなすことは偽善だと糾弾するだけの記事として終わらせるわけにはいかない。

現実を見渡せば、新自由主義は進行し続けている。その論理を環境問題に適用したカーボンクレジット制度は、新自由主義の進行を促進したとは言え非常に現実的で賢い策だと言わざるを得ない。こうした現行の社会状況に迎合して新たな制度を創出することは、社会に大きなインパクトを与えることに繋がる。

しかし新自由主義がすっかり浸透しきっているわけではないということもまた事実だ。例えば、家族や友人を手伝った経験、その手伝いに対価を期待していただろうか。ほとんどの人がノーと言うはずだ。無償にもかかわらず、自ら進んで手伝っていたことさえあったのではないだろうか。「せっかく手伝ったのに感謝の言葉の一つやありゃしない」、裏を返せば感謝の言葉があれば十分だということだ。新自由主義の極致とはこの風景が失われることでもある。すべての価値が貨幣という尺度によって測られる世界。ここに未来があるとは、筆者は到底思えない。

もっと言えば、世界のあらゆる国家が求める「経済発展」。国家の豊かさを知る上で重要な指標であるが、際限のない経済発展の訴求に未来はない。

資本主義の限界に気づき始めている者は少なくない。記号の消費は制度を稼働させるための燃料である。新たな市場の創出は新たな燃料をつくり出すことにほかならないが、これは制度の延命措置にすぎないのだ。

ならばどうすべきか。現行の社会状況――資本主義に絶望している状況――に迎合して、新たな制度を創出するしかない。例えば、貨幣ではなく、時間に価値を置いた制度である。

これはあくまで一つの例だ。いかほどに社会的なインパクトを与えられるかは未知数である。しかし少なくとも時間は資本の支配の外側にある概念であり、かつ人々にとって等しく有限である。社会を変える潜在力は十分ある。例えば、CO2を排出した分、そのCO2を吸収するだけの森を守り育てる作業に従事しなければならない、など。無賃労働である。その責任を自らの時間を売って回収するのだ。

おそらく時間が足りなくなるだろう。しかしそちらに時間を費やさなくてはならないとなれば、賃労働の時間は減る。生産性が減り、大量生産・大量消費の熱が冷める。貨幣に支配され振り回される世の中ではなく、貨幣を賢く利用する世界へと生まれ変わる。

時間を売って他人の責任を買うこともあるだろう。代わりに自分の責任を買ってもらうのである。自分が得意とする分野や好きな分野に時間を費やし、社会全体に寄与していくのである。非効率性に価値を置く、新たな社会ができる。

何度も述べるが、これはあくまでただの仮説にすぎない。そして何よりまだ洗練されていない。しかしこれが環境問題の根本的な解決策になりうると、筆者は直観的に信じている。今後の記事を通して、より具体的な実像を伴ったものとして形作っていければと考えている。

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