「環境保全」が環境を破壊する
自然保護と観光を掛け合わせた、エコツーリズムという取り組みが世界的に見られるようになってきている。
その理念は、「自然環境や文化を保全しつつ、地域社会の発展に貢献する持続可能な観光」である。具体例をいくつか紹介しよう。
エコツーリズムの取り組み
アマゾンの熱帯雨林を対象としたエコツーリズムについて書かれたブログサイトがあった。
ベネズエラのエコツーリズムでは、旅行者に先住民の文化や自然環境について紹介することで、地元の人々の雇用を生み出しているのです。
またブラジルでは、観光省がブラゾア・サステナビリティ・アワードという制度を導入。アマゾンの熱帯雨林でのエコツーリズムに力を入れている旅行代理店や宿泊施設を取り上げています。
こうした取り組みでは、アマゾン地域での自然環境や先住民の文化といった資源を観光資源化することによって観光客を呼び込み、かつ「エコツーリズム」や「エコツアー」と題して環境配慮を謳った観光を産業として確立することにより、自然保護と地域活性化を両立させているとしているのだ。
ブラジルの例では、環境保護に対するインセンティブをつくり出すことによって、宿泊業界での競争が激化するほど、エコツーリズムが盛んになるというシステムができ上がっているのだ。
筆者がここ数日訪れているベトナムのサパという山間部の街でも、観光地化が著しく進んでいる。特に、街の中心部から徒歩30分ほどの場所に位置するカットカット村では、世界一美しいとも言われる棚田の風景と、山奥の原風景、黒モン族の文化を観光資源化している。

街の中心部は宿泊施設や観光客向けに価格設定された飲食店が軒を連ねる(宿泊施設は首都ハノイより安いが、飲食店はやや割高だ)一方で、村は山間部の自然風景と少数民族の生活文化を売りにしているのだ。とは言え村に入るには入場料(15万ドン≒800円。これも割高)がかかり、もはやテーマパーク化しつつあるといっても過言ではない。
棚田は平地の田んぼに比べて環境にやさしい農法だと言われる。大規模化・画一化された平地の田んぼのように単純な生育環境ではないため、生物多様性の保全に貢献しているのだ。一方で大型機械を導入できないことなどから生産効率が悪いことでも知られており、保全が困難なのだ。
カットカット村の観光地化(テーマパーク化)はこの棚田の保全に大きく貢献する可能性がある。地域経済が活性化するとともに、「棚田を保全する」という理念を世界各地の観光客と共有することができるからだ。
エコツーリズムはエコなのか
しかし一度立ち止まって考えてみよう。エコツーリズムは本当にエコなのだろうか。
そもそも観光によってかかる環境負荷を無視してはいないだろうか。例えば日本の人がアマゾンの熱帯雨林に行きたいと考えたとしよう。熱帯雨林の保全のためにエコツーリズムに参加する。しかしアマゾンに行くまでに、飛行機を利用しないわけにはいかない(もちろん、ボートを漕いで太平洋を横断するという手もあるが)。さらに現地の空港から徒歩で行くことができようか。もちろん不可能ではないだろう。しかしそれが現実的でないことは火を見るより明らかだ。

つまり観光をするという時点で、既に環境にやさしくないのだ。もっと言えば宿泊施設のアメニティ、例えば使い捨ての歯ブラシ、髪をとかすための使い捨ての櫛、これらは利用者の最大数日程度の滞在のためだけに存在している。どれも使い回すことができそうな代物であるにも関わらず、一度使用されただけで廃棄となる可能性もある。明らかにエコではない。
エコツーリズムに参加することにより、かえって環境問題を悪化させるという、大きな矛盾をはらんでいるのだ。これは企業が上辺だけのエコを謳って商品を宣伝する「グリーンウォッシュ」に類似している。
経済思想が専門の斎藤幸平は著書『人新世の資本論』の初めの数ページで、SDGsは大衆のアヘンだという痛烈な批判を展開している。彼は「SDGsに取り組む」という善意の消費が、かえって根本的な問題解決を遠ざけることを懸念しているのである。
生きた文化と死んだ文化
環境保全の観点だけではない。文化保全の観点から見ても、エコツーリズムは適切とは言い難い。
これはエコツーリズムに限らず、文化の保全を謳っているもののほとんどは文化を固定化しているにすぎないのである。筆者が考えるに、文化とは生き物も同然で、時代の流れとともに変化していくものである。そして死ぬときは死ぬのである。文化の荒廃とはこのことである。
次世代に継承すべき文化の荒廃を避けるという理念を否定するつもりはないが、「文化の保全」の名の下に、ある一時代の「文化」をその象徴として固定化することはかえってその文化を殺すことになりかねない。
カットカット村のテーマパーク化は、村に息づいていた文化を脚色して博物館の展示物としているようなものだ。それもまた新たな文化と捉えることはできるが、保全の対象となっている文化は既に死んだも同然だ。
伊勢神宮が世界遺産に登録されない理由をご存じだろうか。伊勢神宮は20年に一度、神宮にまつわる一切のものを新調する式年遷宮という行事が行われる。式年遷宮のたびに社殿なども建て替えられるため、建造物自体に長い歴史が刻まれているわけではないのだ。この常に新しく保全するという「常若(とこわか)の思想」に基づいた独特の伝統は、1300年以上にも及ぶ。しかしこの伝統がユネスコの定義する「伝統の真正性」にそぐわないとされているのである。
環境にせよ、文化にせよ、普遍的な価値(Universal Value)というものは存在しない。本質を見極めないまでも、深く考えずに善意のつもりで行っていることが、まったく望まぬ流れを促している可能性があることを想定しておくことが重要である。


