環境活動家は環境のことだけ考えればよいのか
先日(2025年6月現在)、環境活動家として知られるグレタ・トゥーンベリ氏が乗る船がイスラエル軍に拿捕され、強制的に国外退去となったというニュースが報じられた。なぜ環境活動家である彼女が、イスラエル軍に連行されたのだろうか。
グレタ・トゥーンベリという人物
まず彼女が一体何者なのか、確認しておこう。彼女はスウェーデン出身の22歳。15歳の時にスウェーデンの国会議事堂の前で気候変動対策を求めて座り込みを実施し、それを機に世界中で若者たちが気候変動対策のために学校ストライキやデモを行うようになるなど、グローバルな影響力を持つ環境活動家である。
2019年には国連気候変動サミットに参加するため、スウェーデンからニューヨークまで環境負荷の高い飛行機を使わずヨットで大西洋を横断したことでも話題になった。言行一致とはまさにこのことである。これはのちにスウェーデンで「飛び恥」という言葉が広まるきっかけのひとつとなった。

そんな彼女は近年、パレスチナにおける紛争について度々言及してきた。イスラエルによるガザ地区への攻撃を非難し、パレスチナの人々への連帯を表明しているのである。そしてついに2025年6月、支援物資を運び込むためにイスラエルによるガザ地区の海上封鎖を破ろうと試みたところ、国際水域で拿捕されたのである。
しかしなぜ環境活動家である彼女がパレスチナ問題に対して声を上げ、行動を起こしているのだろうか。イスラエル政府以外にもこうした関与を快く思わない人々は一定数いるようだが、逆にここで問いたいのは、環境活動家は環境問題以外のあらゆる問題について見て見ぬふりをするべきなのだろうかということである。
環境問題と社会正義
彼女の活動を機に「気候正義(Climate Justice)」という言葉が世界的に広まったというのも無視できない。気候変動問題が途上国の人々を含む経済的弱者や未来世代に不均等に降りかかる不公平を是正すべきという考え方である。これはこのブログを通して繰り返し伝えてきた、「問題の本質を見失ってはならない」という考え方に共鳴する部分がある。
環境が変わっていくこと自体が問題なのではなく、環境が変わっていくことで我々の生命や尊厳が脅かされることが問題なのだ。だから環境問題に取り組まなければならない、彼女もそう考えていたのだろうと思う。
気候変動以外の場面においても人間に限らず何かの生命や尊厳が脅かされる場面というのは、限りなく存在する。それをすべて解決するのは不可能に近い所業だ。しかし見て見ぬふりをするのは「正義」だろうか。
ハマスによるイスラエルへの奇襲攻撃を機に始まった紛争は今や、イスラエルによるパレスチナの人々に対する虐殺へと発展している。
筆者はこの紛争が始まった当初、各メディアがイスラエルによる「ハマス掃討作戦」と称した虐殺行為を容認しているかのような報道に強い違和感を覚えていた(これは多くの人が抱いていた感情であったに違いない)。今でこそ世界中がその暴挙を非難し、ガザ地区における人道危機を訴えているが、なぜこういったことが起こり得るのか。

それは「正義とは何か」という、哲学におけるもっとも重要な問いの一つにも繋がってくる。一つ言えるのは、価値判断の基準(倫理)は恣意的なものにすぎないということだ。もし明確な倫理が存在しているのならば――もはやそのときそれは倫理ではなく神のお告げに等しいが――、手のひらを反すような報道は起きない。それに基づいて判断を行えばよいからである。
よってイスラエル側を「悪」と断定することもできないことは一応述べておく必要があるだろう。
しかしグレタさんにしてみれば、イスラエルの行為は「悪の所業」であった。誰かの身勝手な決定によって苦しむ人々がいるということ、それは気候変動問題にも紛争問題にも通ずることであり、その元凶は「悪」でしかないのだ。
問題意識を持つこと
もちろん、環境問題と政治・紛争問題を同一視して考えてみよということではない。それらは全く異なる問題でもあり、それぞれがそれぞれの複雑性を内包し、密接に関わり合っていることもあれば関与していないこともある。しかしなぜ問題視されているのか、ということを考えてみていただきたい。気候変動で困っている人が一人もいない、あるいはそれによって得する人の方が損する人より圧倒的に多かった場合、それは問題視されるだろうか。
「環境問題を解決する単純明快な手段は人類を滅ぼすことである」などということを耳にしたことがあるが、わざわざ声を大にして言うことではない。問題を起こす人だけでなく、その問題を害として被る人、それを問題だと認識する人さえ滅ぶのだから、当然のことである。
そして人類を滅ぼすことが問題に向き合う姿勢として正しいとは思わない。それは二国間で戦争が起きた場合に、双方の国の人々を抹殺することとほとんど同義ではないだろうか。少なくとも筆者の信念に照らせばこれは「間違っている」。
ただ重要なのは価値観の押し付け合いをしないことである。何が「正しい」のかを考え続け、対話をして、答えを追い求めること。そこに答えはない。答えはないが、自分が常に「間違っていないか」を考え続けること、明日にでも考えが変わっている可能性は否定できない。しかしそれを繰り返すことで時に、誰も見つけていない新たな問題を見出すことにも繋がるのである。
環境問題を考えることは社会がどうあるべきか、どうあってほしいかを考えることでもある。それを踏まえればグレタさんの今回取った行動は何ら不自然なことではないのではないだろうか。


