未来に対して「責任」を持つべきか
我々はなぜ未来世代に対して責任を持たねばならないのか――。
環境問題の話になるとこういった声を耳にすることがある。今が良ければそれでいい、自分が死んだ後のことなど知ったこっちゃない、そういった考えを抱く者は少なくないはずだ。あるいはそんな人々に「環境問題は良くないことだから否が応でも取り組まなければならないのです」なんて言っている人もいるかもしれない。だがそんな言葉は響かないだろう。環境問題に関心があるか否かに関わらず、ここで一度立ち止まって考えてみよう。
ナチズムの超克
ユダヤ系ドイツ人であり、哲学者のハンス・ヨナスは1970年代に『責任という原理』(原題:「Das Prinzip Verantwortung. Versuch einer Ethik für die technologische Zivilisation」)を出版した。
彼は20世紀最大の哲学者とも呼ばれるマルティン・ハイデガーの教え子でありながら、ハイデガーがナチスを支持したことで問われたその思想の倫理的問題を批判的に乗り越えようとした人物でもある。『責任という原理』はその試みであった。
ヨナスは、未来世代は現代の人間の行動に対して抵抗することができないという立場に置かれていることから、現代の人間は未来世代を保護する責任を持つと考えた。そのために最悪の事態を想定し、「何をしてはならないか」というネガティブな思考に基づいて行動すべきと考えたのである。
同じくハイデガーの弟子であったハンナ・アーレントも、ナチズムに傾倒した師の思想を晩年の『精神の生活』において克服しようとしている。彼女はハイデガーとは単なる師弟関係であったのみならず不倫関係にあったこと、さらに彼女自身がユダヤ人であったことなど、これらの複雑な事情が彼女の思想形成に多大なる影響を及ぼしたことは言うまでもない。
アーレントは、ホロコーストの戦犯であるアイヒマンの裁判を傍聴し、それに基づいて「悪の凡庸さ」を訴えた。
アイヒマンは戦後、南米に潜伏していた。その後しばらくして見つかるのだが、潜伏先が知られることとなったきっかけは、潜伏中も毎年結婚記念日に妻へ花束を贈っていたことだと言われている。つまりアイヒマンはユダヤ人を猟奇的に虐殺する極悪人であったというより、妻を愛する平凡なドイツ人であったのである。

アーレントも彼を平凡な人間と評している。一方で、上からの命令に従ったのみで自分に責任はないと主張するアイヒマンの「無思考性」を批判する。彼女が言うには、「悪人」が「悪」を行うのではなく、思考を怠る人間が「悪」を起こし得るのだ。「悪」は誰もが起こし得る。だからこそ自らの行動がもたらす結果について思考することの重要性を説いた。
無責任であることに責任を持つ
二人の偉大な哲学者の考えを参考に、筆者の愚考も交えて未来世代に対する責任ついて論じよう。
環境問題に限った話ではないが、どこまで責任を果たすべきかという線引きは恣意的なものにならざるを得ない。線引きが定まっていない以上、無責任になることが「悪」とは断言できない。むしろ我々は社会のあらゆる問題に対して「無責任」である。
例えばエネルギー問題や環境問題と密接に結びつく石油製品、より具体的にはプラスチック製品を使用せずに生活をすることが想像できようか。プラスチックが引き起こす問題に最大限の責任を持つならば、プラスチックは一切使用しないということになる。さらに、プラスチック製品を製造している企業の商品は一切購入しないということも、消費者としての責任と言えるかもしれない。しかし世俗を離れて山奥で自給自足の生活をしないことには、それはほとんど不可能である。
だから我々は無責任であることに責任を持つ必要があるのではないかと考える。
現代社会に生きる以上、何かしらの問題に対して無責任であることは不可避であり、それは特別咎められることではない。ただ我々は主体性をもって思考し行動することのできる存在でもある。そして思考を怠るという責任感の欠如は、自身のみならず人類の破滅を招きかねない。

たとえ無責任な存在であっても、絶えざる思考によってそれを自覚し続けることが重要である。責任を持った行動はできなくても、その行動に責任感は伴うということである。
何に対して責任を持つべきかは自身で決めるべきことだ。他人の揚げ足を取るよりも、自身の行動を見つめ直し続けることが何より重要だ。だからと言って自身の存在を否定することは正しくない。存在しないことが「善」であるならば、それは未来世代の存在をも否定することになる。現役世代が未来世代に対して無責任な存在であるという前提に立った上で、最悪の事態を避けるために何をすべきではないかをそれぞれが思考し行動することこそが、未来世代に対して負うべき責務となり得るのではないだろうか。


