ナイルの水をめぐって

世界最長の川であるナイル川の水資源をめぐって、流域国同士での争いが絶えない。

日本のような島国にいると身近には感じられないかもしれないが、ナイル川のような途方もなく長い川はいくつかの国をまたがって流れており、こういう川を国際河川という。国際河川はどこの国にも属さないが、流域国はその川の恩恵を享受する権利がある。

しかし川というのは「上から下へ」流れる。上で水を堰き止めてしまえば、下へは流れないのだ。つまり、上流側の国ほどその河川の利用をコントロールする権限を持っているのである。

ナイルの賜物を賜るのは?

かつて古代ギリシアの歴史家ヘロドトスが「エジプトはナイルの賜物」と形容したように、ナイル川下流に位置した古代エジプトはナイル川の恩恵によって世界四大文明の一つに数えられるほど繁栄した。

エジプトだけではない。ナイル川上流に位置するエチオピアは、1974年に王政が廃止されるまで王室の歴史が3000年以上あったとされている。伝承上とはいえ、これは日本の皇室よりも長いことになる。ナイル無しにはなし得なかった繁栄だろう。

特にナイル川の主要な2つの支流のうち「青ナイル」と呼ばれる流れは、エチオピア高原を源流とする。この青ナイルにエチオピアが大きなダムを建造し、貯水し始めているのである。これに下流のエジプトやスーダンが猛反発しているというわけだ。

そもそもナイル川は2つの支流がスーダンで合流し、北上してエジプトを突き抜けて地中海に注ぐ河川である。流域国は10か国にのぼり、その全長は6500㎞を超えるとされる。日本列島の全長が約3000㎞であることを考えると本当に途方もない。

そのような長い川ならば水資源は豊富にありそうなものである。なぜ、水をめぐって争いが起きるのだろうか。

「上」と「下」の対立

大エチオピア・ルネサンスダムというたいそうな名で呼ばれるこのダムは、その名に劣らぬ偉大な構想をもとに造られた。それは、アフリカ最大のダムを建造し、水力発電によってエチオピア国内の電力需要を賄うというものである。

エチオピアは近年経済成長が著しい一方で、国内に電気を行き渡らせることができていない現状もある。ダムによる電力供給は国家の悲願であり、容易に譲れない一大プロジェクトなのだ。

ダム建造・貯水に反発するエジプトやスーダンは水不足を懸念している。エジプトは雨の少ない地域で、ナイル川の水資源に依存せざるを得ない。さらに人口の急増によってそうした懸念がいっそう高まっており、エチオピアに対する軍事行動も辞さない構えだ。

興味深いのは、歴史的には下流のエジプトの方が水利用に関して強い権利を持っていたということである。というのも、アフリカ唯一の独立国であるエチオピアとは異なり、エジプトとスーダンはかつて列強イギリスの統治下にあったからだ。その当時定められた協定――エジプト・スーダンの二国でナイル川の水資源を配分する――が現在でも二国の水利権の基盤になっている。さらに協定は明らかにエジプトに有利な内容となっており、エジプトはナイル川の最下流国でありながら水利権に関してはかなり大きな力を持ち続けていたのである。

もはや核兵器である

エチオピア側は「ナイルの水は発電のために使用するのみで、下流で水不足は起きない」と主張している。実際、その主張を裏付けるかのようにエチオピアの最下流の位置にダムがある。とはいえ、ダムの建造によってエチオピアが青ナイルの水量をコントロールする権限を実質的に獲得したということはエジプトにとっては無視できない事実なのだ。

これは核で例えることができる。核は「使用するかどうか」以前に、「持っているかどうか」がかなり重要になる。核を保有することは他国に対する牽制として絶大なる効果を発揮するからだ。

しかしスーダンにとってはダム建造が大きなメリットとなる可能性が高い。エジプトの上流には流量を調整し洪水を防ぐダム(アスワンハイダム)があるが、スーダンにはなかった。エチオピアのダムがスーダンにとって、エジプトにとってのアスワンハイダムのようになるのだ。

エジプトではダムによる弊害も発生していて問題になっているが、洪水を防ぐことで安定して灌漑を行うことができるというのも食料安全保障の観点から見ると重要なことである。特に温暖化によって干ばつが頻発する中で、ナイル川の水資源をダムによって管理し、少しでも無駄にしないよう努力をすることはすべての流域国にとって悪い話ではないはずだ。

エジプトのアスワンハイダムだけでは貯水しきれていない年もあるという。その余った水を貯水できるようになれば、エチオピアのダムはかえってエジプトの水不足問題の解決に貢献できる可能性さえある。

これは信用の問題だ。下流の国が上流の国をどれだけ信用できるかということである。それは捉えようによっては上流の国に対する従属を意味する。先ほど核と例えたように、一種の暴力とも言える。暴力を避けるには、当事者間での解決よりも第三者が損得勘定抜きでこの問題に関心を持ち、仲裁に入ることが最適だと私は考える。

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