新たな嗜好品を求めて

嗜好品と聞いて、まず何を思い浮かべるだろうか。

例えば日本人であれば、酒、たばこ、茶、コーヒーは馴染み深い嗜好品ではないだろうか。

とは言え、たばこに関してはこのごろ排外的な風潮が強まっていて、JTのCMもそれなりにリテラシーがないと「これは分煙について言っているんだ!」ということがわからないほど、公共の場に出てはいけないものとされるようになってきている1

なぜたばこがこのような目に遭っているかと言うと、単純に健康に悪いからである。嗜好品はその定義として「栄養や薬効を目的とはしない飲食物」2とされる通り、人間の生命維持にとって不要なものとして扱われているのである。

しかし、我々は常に、「栄養に良いか悪いか」という観点から食を選択してきたであろうか。栄養に良いものだけを選び取っているのだとしたら、きっとあなたの普段の食事は病院食のように味気のないものになるに違いない。

嗜好品が世界を動かした

嗜好品が社会に大きな影響を及ぼした(及ぼしている)例など、挙げればきりがない。

大航海時代はインドにある香辛料を求めて西洋人が旅をした時代だ。この過程で新大陸が発見された(コロンブスはこれをインドだと思い込んで、周辺の島々を西インド諸島と名づけたという話もよく知られている)。

伊達政宗はたばこを律義に一日三回吸っていた――当時はたばこが万能薬として扱われていたので身体に良いものと信じていた――そうだが、それが原因で病死したとも言われている。

あるいはボストン茶会事件、あるいはアヘン戦争、どちらもイギリスが関わっているのは単なる偶然か、何であれ嗜好品は戦争の引き金にもなる。

世界中(主に「途上国」)に広がるコーヒーや茶のプランテーション。環境に良くないことでも有名だが、これが一部の人間の財布を潤すというだけでなく、世界中の人間の嗜好を満たしていることもまた事実である(こうして記事を書きながらコーヒーを飲んでいる筆者もまた、これに加担しているというわけだ)。そしてコーヒーや茶と同様に、たばこも工業製品化を果たしたことで大量生産・大量消費がなされるようになる。

――「タバコの敵はタバコ」でしょう。タバコの好きな私がいうのだから、たぶん、まちがいない。というのも、タバコは、人と人とが初めて出会った際に、相互の緊張をほぐす儀礼に用いられる嗜好品でした。つまり、本来タバコには、それを適切に用いる「時と場所と場合(TPO)」が決まっていた。それを、二〇世紀という時代は、のべつ幕なし、いつでも、どこでも吸えるシガレット(紙巻きタバコ)という大量消費財にしてしまった。その結果、「タバコの害」が必要以上に喧伝されるようになったのではありませんか。

引用:高田公理 2004「はじめに 慈しみ、慎みながら、嗜む楽しみ」高田公理・栗田靖之・CDI編『嗜好品の人類学』pp.1-8.

専売公社が民営化した後も依然として、日本政府がJT株の保有率を大きく占めているのは、たばこ税がもたらす経済的な利益が莫大であるからだ。ピーク時に比べて需要が激減している現在においても、日本の財政を支える重要な税収となっている。

酒も工業製品化を果たしてグローバルに広がる嗜好品である。極北の人々のあいだでアルコール依存症が広がっているのは植民地化に伴う世代間トラウマや、極夜がもたらす孤独感を紛らわすためにお酒が多量に飲まれるからだと言われている。ちなみに、極北地域では穀物を栽培していなかったため、酒文化は外から持ち込まれたものである。植民地化が精神病とアルコールをもたらし、アルコール依存症が蔓延したと言っても過言ではない。

美味い、そして健康に悪い

嗜好品の定義というのは実は非常に曖昧で、例えば脂だって嗜好品と見なすことはできなくはない。これを食べることが全く嗜好ではなく、「栄養学的な観点から生存に必要だから」という理由だけで本能的に選択されるものであるならば、ベジタリアンと呼ばれる人々は激減するに違いない。

何であれ、過剰に摂取すれば毒なのだ。戦時下の日本において、徴兵を逃れるために醤油を飲んだという話を聞いたことがないだろうか。加えて、慢性的な過剰摂取が高血圧やガンを引き起こすことは言うまでもない話だ。しかし塩味が無いと「病院食」になる。

あるいは「美味しいものは、腐ったものに代表される毒」3というように、人間は本来は毒となるものを上手くコントロールして、ぎりぎりの美食を目指してきたのである。健康に良いと言われるチーズや納豆も、常に腐敗と隣り合わせのぎりぎりを攻めている。

要は何が言いたいかというと、人類の食文化は至ってシンプル、美食の追求とともにあったのだ。リスクと紙一重であっても、「美味いもの」には逆らえない。ここに人間の本質的な部分を見出そうとするのであれば、嗜好品が歴史の転換点となっていることや現代社会における「病理」として扱われるほどの大きな問題となっていることにもいくらか納得がいく。

「環境にやさしい」を嗜好する

さて、ここから本題に急旋回していく。近年、我々は新たな嗜好品を手に入れつつあるという話だ。しかしその嗜好がひと味違うのは、美食の追求のようなポジティブな行動原理ではなく、「エシカル(倫理的な)消費」というネガティブな行動原理に基づいているということである。

エシカル消費がネガティブだということに疑義を呈されることを恐れ、ここで端的に説明する。エシカル消費とは「環境に負荷をかけない」ということや「屠畜による動物殺生に対する忌避感」といった前提がある。つまりここで言うネガティブとは、既存のものに対して逆行するという意味であり、既存のものが倫理に反しているように思われるからそれを避けるという意味で、エシカル消費はネガティブなのだ。

美食の追求はアクセル踏みっぱなしの状態、人々の精神的充足を満たすはずの嗜好品は植民地と搾取の象徴となり、社会的な争いの火種となり、人々の病気の原因とまでされるようになった。こうした状況に対してエシカル消費はブレーキをかけ、「エシカルである」ということに対して新たな精神的充足を求めようとする。「我々は倫理的に誤ったことをしていない」という思いが人々の満足度を高める、のかもしれない。

しかし毒を飼い馴らそうとしてまで欲に忠実であった人間が、「正しい」という感覚だけでこれを乗り越えられるだろうか。乗り越えた人間と乗り越えられない人間とのあいだに分断ができるという可能性は考えられないだろうか。

あるいはこの「正しい」という感覚は、経済的な豊かさとの関連を無視できない。マクロな視点で捉えるなら、いわゆる先進国にこの感覚が広がっているということである。「正しい」ことは啓蒙すべき、過剰になれば「悪」を排除すべきという考え方に至る。未だ圧倒的な力を持つ「先進国」が「正しい」を振りかざして、「途上国」における「悪」を排除していく(例えば開発援助などという文脈で)とき、それは新たな植民地化の幕開けであるとも言えるだろう。

個人の嗜好が他人に迷惑をかけるようなことがあれば、それを気にかけるくらい当然のことかもしれない。たばこの受動喫煙はもちろんのこと、コーヒーや紅茶が世界のどこかの誰かの搾取の上で成り立っているということに想像を巡らせることもけっこうなことだ。しかし、倫理的な正しさのみを追い求めていくのであれば、それはかえって人々の生活を窮屈で陰鬱なものにしかねないということは頭に入れておく必要があるのではないだろうか。

  1. YouTubeにアップされている「【公式】JT企業CM「鬼のゆく道」茶屋篇」( https://www.youtube.com/watch?v=Fk5PRXERxvo)を参照(2026年1月30日時点)。CM内ではたばこは一切出てこない。 ↩︎
  2. 小林盾 2020「序章 嗜好品の社会学の理論と方法」小林盾編『嗜好品の社会学――統計とインタビューからのアプローチ』pp.7-19. ↩︎
  3. 檜垣立哉 2018『食べることの哲学』世界思想社. ↩︎

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

社会

次の記事

第二次チョコレート戦略