ノーベル賞と基盤的資金と環境問題
2025年10月8日、スウェーデンの王立科学アカデミーは、ノーベル化学賞を京都大学の北川進特別教授ら3名に授与すると発表した。
この受賞は単なる科学的偉業にとどまらず、地球規模の課題である気候変動対策に対してどのように科学が応答できるかを示す象徴的な出来事でもある。北川教授らが生み出した「金属有機構造体(MOF)」は、二酸化炭素を吸着・貯留できる革新的な素材であり、今後、排出削減技術の切り札になる可能性を秘めている。
金属有機構造体とは
まずは受賞した北川教授の研究内容についてせっかくなので触れていこう。金属有機構造体(Metal–Organic Framework:MOF)は、金属イオンと有機分子(有機配位子)が結びついて三次元の網目構造を形成した多孔性の材料である。最大の特徴は、比表面積(単位質量または単位体積当たりの表面積を示す物理量)の異常な大きさで、たった数グラムでサッカー場数面分に相当する表面積を持つことがある。この広大な表面積こそが、ガスの吸着・貯蔵能力を飛躍的に高めている。
北川教授らは、1990年代からMOFの開発研究を牽引してきた先駆者であり、「安定性が高い」「吸着対象を選択できる」「構造を設計して機能を変えられる」という画期的なMOFを確立した。これにより、素材科学に分子レベルで構造をデザインできるという新しい概念を持ち込んだと評価されている。
MOFの最も期待されている用途の1つが、CO₂回収・貯留(CCS)技術である。従来のCO₂吸着剤は高温・高エネルギーが必要だったが、MOFは低エネルギーで効率的にCO₂を吸着できる点が飛び抜けている。排出量が特に多い火力発電所や化学工場などに応用できれば、現在のCO₂排出量削減目標の達成を大きく前進させる可能性がある。
また、MOFはCO₂だけでなく、水素・メタンなどのガス貯蔵材料としても注目されている。水素社会の実現に不可欠な“軽くて高効率な貯蔵技術“としての応用が期待され、環境技術の専門家からは「次世代エネルギーシステムの基盤材料」と位置づける声もある。
さらに、MOFの汎用性は環境分野にとどまらない。薬剤の徐放システム、化学反応の触媒、さらには匂い吸収素材としての応用など、産業・医療まで多方面に広がる。
つまり、MOFは「環境問題を解決できる新素材」であると同時に、「基礎研究がもたらした巨大な波及効果」を体現する存在でもある。今回のノーベル賞受賞が大きな注目を集めた理由は、地球温暖化対策の切り札になりうる素材が、長年の地道な基礎研究から生まれたことを象徴しているからだ。
研究資金と国際協力
日本のノーベル賞受賞者は米国国籍を含んでも、同月6日に生理学・医学賞の受賞が決まった坂口志文教授に続き30人だ。ここで毎度、議題に挙がるのが「研究資金問題」だ。
日本の大学に配分される「基盤的研究費(運営費交付金)」は、2004年の国立大学法人化以降、実質的に減少が続いている。結果として研究室は設備更新もままならず、若手研究者の雇用は不安定で、研究の長期計画が立てにくい状況に置かれている。
ノーベル賞が発表されるたびに話題になる「研究力の衰退」「若手の海外流出」は、この構造的問題の表れだ。研究者たちが本来費やすべき実験や考察の時間を、競争的資金の申請書作成に奪われている現状も深刻だ。
MOF研究のように、数十年にわたる基礎研究が成果に結実する分野では、とくに「長期的な投資」が欠かせない。短期的な成果ばかりを求める制度では、革新的な発見は生まれにくくなる。
環境問題、とりわけ気候変動は、一国で解決できる性質のものではない。CO₂削減技術は世界全体で普及しなければ効果が限定的であり、研究もグローバルに連携することで加速する。

今回の北川教授の成果も、国際共同研究によって発展してきた側面がある。世界の研究者が材料設計、計算科学、環境化学など多分野で協力し合うことで、MOFの応用可能性は一気に広がった。
しかし、日本の研究環境が資金不足で停滞すると、国際共同研究に参加する余力すら失われかねない。これは、日本だけでなく世界全体の温暖化対策の遅れにも直結する。
CO₂削減技術が1年遅れれば、世界の気温上昇は加速し、経済損失や自然災害の影響も大きくなる。
つまり、研究資金不足は日本の競争力だけでなく、“地球全体への余剰損失”を引き起こす問題なのだ。
MOF研究から見えた課題
北川教授がMOF研究を始めた当時、ここまで大きな応用が生まれると予想した人は少なかっただろう。しかし、基礎研究はそういうものだ。何十年も後になって突然価値が立ち上がる。
だからこそ、科学技術政策において「基盤的資金」は極めて重要である。安定した資金があることで、研究者は失敗を恐れず挑戦し、国際的な研究ネットワークにも積極的に参加できる。
今回のノーベル化学賞は、金属有機構造体という革新的な素材が、地球温暖化対策の大きな可能性を切り開いたことを示しただけでなく、日本の研究基盤の課題を改めて突きつける出来事でもあった。研究資金の不足は、日本の競争力だけでなく、世界全体の環境技術の進展を遅らせる。
科学への投資は、目先の利益ではなく未来への投資である。
地球温暖化という共通課題を前に、研究を支える社会の基盤を整えることは、私たち全員の責任であり、未来への確かな一歩となるだろう。


